立ち飲み屋物語(5)
第2章 O氏はいかにして立ち飲み屋を立ち上げたのか
創業の基本条件
さっそくO氏は、いかにして立ち飲み屋なるものを立ち上げることができるか、について考えはじめた。
まず資金がいくらかかるのか?そのメドが立つのか?手元にはほとんどない。借りるあてがあるか。親戚は無理だろう。銀行が貸してくれる見込みはなく
退職金の前借りしかない。全額貸してくれるのか。何割ぐらいあてにできるだろう。
そのまえに、いくらかかるのか。物件によるだろう。物件はどこでやるか、場所しだいでピンキリだろう。
かれは、営業の外回りを利用して繁華街を物色しはじめた。
立ち飲み屋物語(4)
ある老人との出会い
その日、O氏がひとりで飲んでいると不意に高齢の客が話かけてきた。
「いつもお見かけしていますが、いかがですか、わたしの行きつけの店に付き合っていただけませんか?」
「ええ、いいですよ」
その客がなぜかれに声をかけてきたのか、その男の顔を見知っていたのか(ときどき見かけたような気がしたが)、なぜ即座に同行に同意したのか、いま
もって分からない。
高い店か安いか、懐具合は大丈夫か(もし割り勘だったら)、遠くはないのか、あとで考えると疑念はいくつも湧いてくるのだが、なぜあのとき
浮かんでこなかったのか、おそらくまっいいか、どうにかなるさという楽観主義が頭をもたげてきていたのだろう。
その店は歩いて5分ほどの新橋の奥まった路地にあった。
5~6人でいっぱいになる、小さな、やはり立ち飲み形式の店だった。酔っていたせいもあったせいか、どんな店員がいたのか、そこで何をのん飲んだのか、
店の造作がどうだったのか、まるで思い出せない。
2,3杯飲んで用事を思い出したようなふりをして出たことはよく覚えている。出がけに「お勘定は?」と懐に手をやったとき、
「今日のところはわたしに任せてください。」と言って男はO氏を店の外に押し出したのである。
もうひとつ、不思議なことがあった。男は片手をあげて、勘定をせずに一緒に店を出たのだった。んっ?・・・。
そのあとで、男が言った言葉はかれを驚かせた。
「あれはわたしの店なんですよ」
それにかぶせて男はさらに衝撃的な告白をした。
「もうすぐ閉じるのですがね。」
男と別れて駅へ向かう途中かれはなぜかはげしく動悸がしていた。あの店を引き取ってやらないか、という思惑で誘われたのではないか?
店での会話(覚えていないが)で無理と判断されて放免されたのではないか?
そのきだった。突然ひとつの考えがかれを襲ったのは!
「そうだ!立ち飲み屋をやろう!」
まったく予想もしなかった思いが、どうして天から降ってきたのか、いまもって分からない。
たしかなことは、このひらめきがとてつもなく当然のごとく、まるで運命のように感ぜられたということだった。
自分の将来はこれしかない!
かれは郊外のわが家に帰るまで、一種の興奮状態にあった。未来は満天の星空のように輝いているように思われた。
立ち飲み屋物語(3)
立ち飲みの功罪
琥珀色の液体をグラスに注ぐ。天井からのスポットライトの明かりのなかに小さな気泡が立ち昇る。O氏はそれを美しいと思う。
それこそが幸福の具体的な形態であるかのように思いなされるのだった。一気に喉に流し込む。さらにグラスを満たして、一息に
飲みほし、ふゥっ!と吐息をはく。
かれはこの瞬間を愛していた。ア~ヤダヤダという意識や感情が、急速に胸のなかからうすらいでゆく。
仕事の鬱屈も人間関係の屈託もこころのなかから消えてゆく。
じつはかれはもうすぐ60歳になる。次なる人生の準備をしなければならない。
暗い不安がいつも胸の底にわだかまっている。それがこの瞬間、なんとかなるさ、というなんの根拠もない楽観に占められる。
かれの会社はいわゆる斜陽産業と呼ばれる業界に属しており、たいして退職金も期待がもてない。
子供たちはなんとか一人立ちしてはいるが、家のローンはまだすこし残っている。
そんな心配事をなんとかなるさと脇に押しやってさらに一杯飲みほす。
ア~ヤダヤダという口癖と同じくなんとかなるさという言葉もかれの常套句なのだった。
こうしたかれの個人情報は、かなり長い時間をかけてかれ自身から聞き知ったものだ。そのほとんどは新橋の立ち飲み屋「あじろ」
で得たものである。
かれは、酔うほどに饒舌になり、いくつかの大事な部分をのぞいてはおおらかに、こんなことまで話してもいいのかと思えるほど
に語ってくれた。
かれが語らなかったことといえば、会社のこと、家族のことのみで、それ以外はすべてオープンであった。
店員にオドオドする気後れやもう一本飲むかどうするかイジイジする躊躇や店員に忠言すべきと思いつつ口に出せない逡巡・・・そう
した屈折した心理をかれはいつも率直に、いやむしろあけすけに語った。
かれはいつもいかにも楽しげに飲んだ。この一杯ありてこそ今日ひと日の幸せここにきわまれり!人生はかくいい気分の時間の堆積で
あらねばならぬ!
かれはこのようにして立ち飲みをこよなく愛していたのであった。
立ち飲み屋物語(2)
ある日のO氏
ある日、いつものように、無類の酒好きのO氏は、会社がひけるとすぐに、ひとりでそそくさと新橋に出て、立ち飲み屋「あじろ」
の暖簾をくぐった。
「らっしゃ~い!」
体育会系のオニイサン2人が、威勢のいい野太い声をかぶせてくる。
「大瓶ビールに煮込み豆腐ゥっ!」
オニイサンのするどい(と感じられる)視線を避けるように、伏目がちに注文する。
「アイよっ!」
(どうしてオレはいつもオドオドして注文しちゃうのだ。ア~ヤダヤダ)
かれはそんな自分が嫌いだった。こういう店でだけではない、すこぶる高級な店へいけばいったでよけい気後れがするのである。
わきで横柄な態度で声高に注文する人がいるといつも羨ましく思うのだった。
もっともかれは、今日までたえず、そうした心情に支配されながら生きてきたのだったが、自分の深い胸底にひそんでいる真相に
は気づいていなかったようである。反面、かれは、なにをおいても、無類の楽観主義だったのである。かれの母親はいつも「この子
はほんとうに極楽トンボなんだから」と嘆いていた。しかし、「極楽トンボとはそんなにいけない性格なんだろうか」とつねづね母
親の嘆きに疑問を抱いていた。
氷の浮いた大きな水槽からビール瓶がとりあげられ、すこし汚れたタオルで水気が拭われ、グラスとともに目の前に突き出される。
「ほいっ!」
さあ、飲みな!という勢いに気押されつつ、いささか不衛生だなという思いがしないでもないが、まっいいかと自らをなだめすかして
ビールを手酌する。
こうしたタジタジした心の動きは、いささか不愉快である。この軽い自己嫌悪のせいで、せっかくの始めの貴重な一杯の味が若干そこ
なわれる気がいつもした.
(なぜオレはこうも飲ませていただいているという姿勢になるのだろう。ア~ヤダヤダ)
そして、こうしたア~ヤダヤダという感情がいつしか伏流となってO氏に重大なる決意を促そうとは、まだこのとき気がついていなかっ
た。